「報われない」物語の美学

世の中には、報われる物語と報われない物語がある。

報われる物語は、辛いこと、苦しいことがあっても最後には主人公が明るい笑顔を取り戻し、幸せを得る話。一方の報われない物語は、辛いこと、苦しいことの末、待っているのは究極的な終わりだけ。

みんなどっちの物語が好きなのだろう。

一般論として、子供向けの物語には報われる話が多く(ただイソップ童話には割と辛辣で報われないものが多いような気がするけれど)文豪と呼ばれる人たちの物語には、報われない話が多いように思える。

世の中には、報われない、救いようもない悲痛な話もたくさんあって、そう考えればリアリズム的で報われない話の方が正しいような気もするが。

けれど、せめて物語の世界では夢を見たいのに、そこで報われない現実的な話を見せられて、がっくしということもまたありそうだ。

報われない物語の良いところは、報われる話より「美学」という点から見れば美しく見えるということ。美貌の上、何でもかんでも成功する人物が再び成功する物語を見せられても美しくない一方、美貌でもないが努力した結果、やはり成功しないという救いようのなさには美しさすら感じる。

坂口安吾も「文学のふるさと」で救いのない生存の孤独が文学を文学たらしめるといった趣旨のことを述べていたけれど、文学などの物語は常にモラリティへの対抗という背徳性をもとに、美しさを獲得してきたところがあるのではないか。

物語における圧倒的な美しさは、救いようのなさという土壌にあって初めて醸成され得るし、そのことを報われない物語は知っている。報われない物語の報われなさにみんなは感涙したり、美しいと思ったり、綺麗と感じたりする。

そして現代でも度々使われる「かわいい」という言葉もかつては、現代での「かわいそう」の意味を持っていた。そして、僕はこの時代においてもかわいいという言葉は、無垢であるとか、穢れないとか、どうしようもない救いようのなさといった、ある種のかわいそうな要素を内包していると感じる。かわいいという一種の美しさを示す表現でさえ、その内部にはかわいそうな報われなさを隠し持っているように思えるのだ。

だから、僕は美しさと報われなさは繋がっているのだと思う。

ヨセミテ帰りに聴いたSimon & Gerfunkel「America」の想い出

Simon & Gerfunkel「America」は僕にとって想い出深い曲の1つだ。

僕がUC Berkeleyに留学していた頃、韓国人の留学生に誘われヨセミテ国立公園に旅行へ行く機会があった。

ただでさえ慣れない英語に苦労して、帰りたい、帰りたいと思いまくっていた頃なのだけれど、カリフォルニアまで来て、ヨセミテにも行かないのは勿体無いと思い旅行に行くことを決めた。

ヨセミテでは、時刻表通りバスが来ずバスをヒッチハイクしたり、ホテルだと思ったらテントで真夜中真っ暗だったり、急勾配の山を登って崖から落ちそうになって死にたくないと本気で思ったりと、いろいろあってヘトヘトだった。

そんなヨセミテからマーセドというヨセミテの下にある街へ戻る途中のバスで聴いたのがこのAmericaだった。

窓の外を覗くと日本では見たことのない、一面茶色の大地。道路には信号の一つもなく、先がまるで見えない。店の一つだって見えやしない。ただただ茶色だけの道の向こう側で日が暮れ始めている。

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そんななかで聴いたAmerica。iPhoneに繋いだイヤホンから流れてきたAmericaを聴いて、はじめてアメリカらしいアメリカを感じたような気がした。僕が住んでいたバークレーは、アメリカでも普通の都市部だし、電車に乗れば少しですぐにサンフランシスコ。でも、ここはバークレーとはまるで違う、大自然アメリカ、広大なアメリカという雰囲気を全面に醸し出す、そんな場所だった。

この曲の歌詞も、バスでアメリカを横断する様子を書いたもの。この歌詞の中の主人公も同じような気持ちを味わっているのかなと思うと、なんだか日本でこの曲を聴いていた頃とはまるで違う気持ちになった。

アメリカで聴いた日本の音楽があまり馴染まなかったように、やはり音楽にはその土地の空気感が深く関係している。アメリカで生まれた音楽は、やはりアメリカで聴くべきなのだ。

Americaの音楽とともに、バスは進む。どこまでも茶色い大地を抜けて。どこか不安になるほど、がらんどうな外の景色を見ながら、いろんなことを思った記憶。アメリカ留学中は、多分楽しいと思ったことより早く帰りたいと思ったことの方が正直多かったと思う。それでも、僕にとってこの想い出は本当に印象深くて、今でもこの曲を聴くとあの日のことをありありと思い出す。

知らない国で、道中聴いた音楽がこんなに記憶に残るなんて。

今でもあの日の記憶はまるで昨日のことのように、そこにあるような気がする。

家事についての考察: 生活を繋ぎ止めるための「家事」

「家事」って面倒だ。掃除、洗濯、料理、ゴミ捨て、風呂掃除...苦行だ。

何を好き好んで、ゴミ袋の無くなるタイミングを見計らってゴミ袋を買いに行って、売り場で5L、20L、40Lの違いに悩んで、どれを買おうとか、考えなければいけないのだろう。ちなみに、東京23区内はゴミ袋を買わなくて良いらしい。お金のある自治体、という存在に嫉妬したくなる。

このゴミ袋を買うこと然り、掃除機をかけること然り、洗濯物を取り込んだりすること然り、これらの一般的な家事は終わりを一向に示さない。

暫くすると、すぐに次の機会がやってきて、また同じことの繰り返しなのだ。家事は、サグラダ・ファミリアか、と突っ込みたくなる。

にしても、不断かつ永続的な努力をもってしてはじめて成立する「家事」をもっと世の中の人たちは重要視する必要があると思う。

結婚していて、奥さんだけが家事をやっているとしたら、それは相当な苦労だし、立派な労働だ、というのが俺の見解。外で働くのと比べたら云々、という話をする必要はない。家事は立派な労働。

それじゃあ、なんで家事をやんなきゃいけないのっていう話になる。

そりゃまあ、家事をしないと家がゴミ屋敷になったり、部屋が異臭を放ち始めたり、健康で文化的な生活が営めなくなるから、でしょうと。

でも、それ以上に家事をすることって、それ自体が生きることとか生活を営むことに直結するというか、イコールになる気がする。

村上春樹の小説について書評するときにコラムニストの内田樹が言っていたけど、家事をするのは、あっち側の(悪魔的な)世界へ人が連れて行かれないようにするため、なのかもしれないと自分自身も最近よく思う。

あっち側の世界っていうのは、いわばパラレルワールド的なもので、でもそのパラレルワールドは、決してユートピアみたいな幻想的な世界ではない。限りなくディストピア的で、多分邪悪。ゴミ屋敷に住んでいる人っていうのは、そのディストピアに近づいている、あるいは、ディストピアに侵された人なのではないか。

毎日の定期的な労働=家事をすることで、社会とか現実世界と自分を取り持つというか、かろうじて現実世界で居続けることができる。でも、その家事をほったらかして、のんびり悠々としているといずれ、ディストピアに落ちてしまいますよ、と。

そう考えると、家事ってめっちゃ大切じゃん。俺がゴミ袋のサイズ選びに悩んでた時間とか、プラスチックゴミと燃えるゴミを分けてた時間とか、あれ大切だったんだ、ってなってなんか嬉しい。そういう気持ちになるわけです。

だから、家事労働をする人たちはもっと賞賛されるべきなんじゃないかな。ゴミ捨て頑張ったね、とか、お風呂掃除してくれたの、ありがとう、とか。そういうのがないと、みんな家事をしなくなっちゃうよ。

家事だからって見くびっちゃダメで、家事労働してくれる人がいるから、平穏に現実世界を生きられる的な。ディストピアに落ちないであなたの家庭がまわっていたり、一人暮らしの人がなんとか生き延びられるのは、そのめんどくせえ家事のおかげだと思いましょう。

そしたら、ほら、家事もいくらかやる気、出るでしょう。(寓話つくれそう)

このブログをつくったわけ

「仮定的な、余りに衒学的な」というこのブログをつくった理由に、大した、もっともらしいものはほとんどない。

強いて言うならメインで書いているブログは、色々な人が読むことを想定して、なおかつちゃんと読み手がいることを前提に書いているから、変なことや取り留めのないことはあまり書けず、結果このブログをつくった、ということにしたい。

一応、LINE BLOGでもブログを時たま書いていて、こっちの方が日常とかどうでも良いことを書く役割を果たしてきたとも言えるけれど、こちらはこちらでスマホでしか書けない。だから、取り留めのない、いわばどうでも良いことが長ったらしくなってくると、スマホで書くのは面倒なので、今後はこのブログにそういうのは書いていきたい。

要は、あまり読み手がいることを考えていないブログがこれ、ということになる。

当然わけのわからないこともあるだろうし、言いたいことがさっぱり、ということもあるかもしれないけれど、単に自分自身、書くことが好きで、その気持ちを留めておくのは勿体無く、ここに書いている程度のものだから、そのあたりは勘弁して欲しい。

暇な雑記帳といったところか。

ちなみに、この「仮定的な、余りに衒学的な」というタイトル自体、まだ(仮)の状態であり、そもそもこの言い回しのオリジナルは芥川龍之介にあるので、パクリでしかないが、そのあたりも含めて衒学的なのだ、という皮肉に落ち着く。そういうどうしようもないブログなのだ。

しかし、こんなぶあいそな挨拶をする人の書くブログが案外面白いことも、あるかもしれない。