家事についての考察: 生活を繋ぎ止めるための「家事」

「家事」って面倒だ。掃除、洗濯、料理、ゴミ捨て、風呂掃除...苦行だ。

何を好き好んで、ゴミ袋の無くなるタイミングを見計らってゴミ袋を買いに行って、売り場で5L、20L、40Lの違いに悩んで、どれを買おうとか、考えなければいけないのだろう。ちなみに、東京23区内はゴミ袋を買わなくて良いらしい。お金のある自治体、という存在に嫉妬したくなる。

このゴミ袋を買うこと然り、掃除機をかけること然り、洗濯物を取り込んだりすること然り、これらの一般的な家事は終わりを一向に示さない。

暫くすると、すぐに次の機会がやってきて、また同じことの繰り返しなのだ。家事は、サグラダ・ファミリアか、と突っ込みたくなる。

にしても、不断かつ永続的な努力をもってしてはじめて成立する「家事」をもっと世の中の人たちは重要視する必要があると思う。

結婚していて、奥さんだけが家事をやっているとしたら、それは相当な苦労だし、立派な労働だ、というのが俺の見解。外で働くのと比べたら云々、という話をする必要はない。家事は立派な労働。

それじゃあ、なんで家事をやんなきゃいけないのっていう話になる。

そりゃまあ、家事をしないと家がゴミ屋敷になったり、部屋が異臭を放ち始めたり、健康で文化的な生活が営めなくなるから、でしょうと。

でも、それ以上に家事をすることって、それ自体が生きることとか生活を営むことに直結するというか、イコールになる気がする。

村上春樹の小説について書評するときにコラムニストの内田樹が言っていたけど、家事をするのは、あっち側の(悪魔的な)世界へ人が連れて行かれないようにするため、なのかもしれないと自分自身も最近よく思う。

あっち側の世界っていうのは、いわばパラレルワールド的なもので、でもそのパラレルワールドは、決してユートピアみたいな幻想的な世界ではない。限りなくディストピア的で、多分邪悪。ゴミ屋敷に住んでいる人っていうのは、そのディストピアに近づいている、あるいは、ディストピアに侵された人なのではないか。

毎日の定期的な労働=家事をすることで、社会とか現実世界と自分を取り持つというか、かろうじて現実世界で居続けることができる。でも、その家事をほったらかして、のんびり悠々としているといずれ、ディストピアに落ちてしまいますよ、と。

そう考えると、家事ってめっちゃ大切じゃん。俺がゴミ袋のサイズ選びに悩んでた時間とか、プラスチックゴミと燃えるゴミを分けてた時間とか、あれ大切だったんだ、ってなってなんか嬉しい。そういう気持ちになるわけです。

だから、家事労働をする人たちはもっと賞賛されるべきなんじゃないかな。ゴミ捨て頑張ったね、とか、お風呂掃除してくれたの、ありがとう、とか。そういうのがないと、みんな家事をしなくなっちゃうよ。

家事だからって見くびっちゃダメで、家事労働してくれる人がいるから、平穏に現実世界を生きられる的な。ディストピアに落ちないであなたの家庭がまわっていたり、一人暮らしの人がなんとか生き延びられるのは、そのめんどくせえ家事のおかげだと思いましょう。

そしたら、ほら、家事もいくらかやる気、出るでしょう。(寓話つくれそう)

このブログをつくったわけ

「仮定的な、余りに衒学的な」というこのブログをつくった理由に、大した、もっともらしいものはほとんどない。

強いて言うならメインで書いているブログは、色々な人が読むことを想定して、なおかつちゃんと読み手がいることを前提に書いているから、変なことや取り留めのないことはあまり書けず、結果このブログをつくった、ということにしたい。

一応、LINE BLOGでもブログを時たま書いていて、こっちの方が日常とかどうでも良いことを書く役割を果たしてきたとも言えるけれど、こちらはこちらでスマホでしか書けない。だから、取り留めのない、いわばどうでも良いことが長ったらしくなってくると、スマホで書くのは面倒なので、今後はこのブログにそういうのは書いていきたい。

要は、あまり読み手がいることを考えていないブログがこれ、ということになる。

当然わけのわからないこともあるだろうし、言いたいことがさっぱり、ということもあるかもしれないけれど、単に自分自身、書くことが好きで、その気持ちを留めておくのは勿体無く、ここに書いている程度のものだから、そのあたりは勘弁して欲しい。

暇な雑記帳といったところか。

ちなみに、この「仮定的な、余りに衒学的な」というタイトル自体、まだ(仮)の状態であり、そもそもこの言い回しのオリジナルは芥川龍之介にあるので、パクリでしかないが、そのあたりも含めて衒学的なのだ、という皮肉に落ち着く。そういうどうしようもないブログなのだ。

しかし、こんなぶあいそな挨拶をする人の書くブログが案外面白いことも、あるかもしれない。