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分かりやすい「ものさし」で測るということ

寝る前ってなんだかいろんなことが書けるような錯覚に陥る。

そりゃもう、早くベッドに入って寝てしまえば良いのに、何を好き好んでカタカタ打ってるんだ、とも思うけれども。

でも書きたいことはたいして無くても、文字を書くこと、打つことが好きだ。良い文書が出来上がる保障はどこにもないけれど、何か書いているうちに落ち着くというか。だから、レポートを書くのも案外好きだ。筆記テストは最悪。

 

東京タラレバ娘」のエンディングテーマ曲だったPerfumeの「TOKYO GIRL」を聴きながら、分かりやすい「ものさし」が年々減っていっているな、とふと思った。

昔は簡単だった優劣のつけ方が、どんどんと難しくなっていく。分かりやすいものさしが減り、そのかわりに上手く測れないポンコツなものさしばかりが増えていく。

例えば、幸せそうに偽っているけれど、本当は不幸せな人と、周りからどう見ても不幸せな人、どっちが良いのだろう。偽善的な幸せを演じている人の方が、どう見ても不幸せな人よりもさらに不幸せなのか。こういうのは、簡単なものさしではどうも上手に測れない。いや、本当は測ること自体がナンセンスなのかもしれないけれど。

東京で何か希望を追い求めて、夢を見て、その万華鏡からどうしてもリタイアできずにいる人(本当はもう無理だって気づいているけれど、リタイアした自分を想像したくないのかも)って結構多いような気がする。何でもある街だからこそ、色んな足りないこと、どうしようもないこと、達せられない自分が妙に気になりだしてきて、どうしようもなくなる。

東京でどれが幸せだとか、不幸せだとか、勝ちだとか、負けだとか、そういうことは最近とても分かりにくくなってきているように思える。そして、もしかしてそれは東京に限らず日本中どこでもそうなのかもしれない。

明確な答えが見つからないから、もう少し待てば、もう少しこうすれば、もっと良くなるかも、もっと幸せになれるかもって思ってしまう。そうしてタラレバしているうちに、いろんなことが過ぎ去っていくのかもしれない。けれども、それを否定もできない。

だって、分かりやすく理性的で、とても人間的な「明快さ」はその人自身を、最後にはつまらなくさせてしまう気がするから。自己啓発書に書いてあるように、無駄なことはやめましょう、無駄な思考、無駄な時間は取り除きましょう―その通りに従えば、理性的で明快な毎日が目の前に現れるのかもしれない。

でも、僕はそれを理想的だとはおよそ考えられないし、そういう計算高い正しさは、きっといろんなことをつまらなく、そして汚してしまうと思う。だから、タラレバしたって良い。分かりやすいものさしで自分のまわり、至るところにある物事を測らなくても良いんじゃないかな。

その無駄な過程が、きっと最後には良いところへとたどり着かせてくれるような気がするから。「TOKYO GIRL」を聴きながら、そんなことを思った。

TOKYO GIRL

TOKYO GIRL

  • Perfume
  • エレクトロニック
  • ¥250

深夜に突然現れる「何か書きたい欲」

何か書きたいけど、書くことがない。そんな気分。

何かを誰かに伝えたくて、自分自身が喜べるような小気味よい文章を書きたくて、BGMとして聴いている藤原さくらの音楽がとても良くて、何かさらさらと書けるような気がしたけれど、書けない。

だって、書くことが何もないから。いや、本当は多分あるんだ。

でも、それを詳細に語る能力も無いし、面白おかしく記述するテクニックもまたない。

ついこの間20歳になって、やっと20代が始まったにも関わらず、文章力は一つも上がっちゃいない。たくさん本を読んで、良い文章を噛み締めれば、もっと素敵な文が書けるようになるのかな。自分で読んでて、おおっ!ってなるような良い文章。maybe、無理。

僕が今まで読んできた作家で文章が上手いと思うのは、太宰治だ。上手いというより、リズミカル。流れるような文体。適切に配置された体言止め。津軽弁の影響だろうか、太宰の文章はロジカルというより、フィジカルで、身体性が高い。

この流れるような文体というのに憧れる。みんなが努力すれば誰でも太宰みたいな文を書けるのだとしたら、多分、世の中に星の数ほど溢れる作文やブログは、ものすごいクオリティになるんだろう。だが事実そんなことはないから、やっぱり文章には天性的なものが関係してくるらしい。

村上春樹は「午前3時に冷蔵庫を漁るような人間には、その程度の芸術しか生み出せない。そしてそれが、僕だ。」と言っていたけれど、そんな午前3時に同じように文章を打っている僕自身も、やはりその程度のものしか生み出せないような気がする。

じゃあ、早起きして朝6時に打てば、もっと素晴らしくて、比類ない、最高の文章を生み出せるかって。それも限りなく怪しい。限りなく黒に近いグレーゾーンだ。

とにかく、こんなことをしている場合じゃないんだ。本当は。

だらだらと書いてきた無益な文章に終止符を。おやすみなさい。

I wanna go out

I wanna go out

maybe maybe

maybe maybe

「キリンジ」の音楽と歌詞と、それから文学と

LINEモバイルのCMがYouTubeの広告として頻繁に表示されていたのがきっかけで、キリンジにハマりつつある今日この頃。

YouTubeの広告って大抵くだらないやつか、邪魔なやつが多くて、大半はスキップするんだけど、この広告を見たとき、まず曲で良いな、と。ボーカルに聴き覚えはあったから、もしかしてキリンジじゃないかなと予想は立てていた。そして、実際に調べてみると案の定やっぱりそうだった、という流れだ。

なぜMVNOの広告で、しかも「愛と革新」にキリンジの「エイリアンズ」なのかは正直よく分からないけれど、ターゲットとして狙っている層がキリンジのリスナー層なのかもしれない。(多分違う)

この曲を聴く前には、キリンジと言えば「ロマンティック街道」くらいしか詳しくは知らなかった。(しかもなぜロマンティック街道というセレクトだったのかは自分でも正直よく分からない)

ロマンティック街道

ロマンティック街道

  • KIRINJI
  • J-Pop
  • ¥250

でもこのCMで使われている「エイリアンズ」―楽曲も最高だし歌詞も魅力的だ。

団地が窓越しに見えるような衛星都市の情景が目に浮かぶ。

そして僕が個人的に気に入っているのは、「バイパスの澄んだ空気と君の街」という歌詞の部分。バイパスが出て来るあたりが、衛星都市らしいし(都会の近くにありつつも、大都会ではないベットタウンのような位置づけ)その雰囲気が僕の中ではすごくリアルに浮かんでくる。団地が立ち並ぶ少し郊外の街並み。たくさんの人が住んでいるけれど、どこか空虚な感覚を抉る街と言うべきだろうか。こんなことを書いていたら、角田光代空中庭園を思い出してしまった。

空中庭園 (文春文庫)

空中庭園 (文春文庫)

 

 ▲郊外の団地に住む京橋家の人々が、各々の視点から家族や生活を見つめた作品。郊外、そして団地という言葉がキーになっていて、この楽曲とも少し重なる世界観があるように思える。

話が少し逸れてしまったが、僕はこの曲のような多様な解釈ができる歌詞とか、正直一回読んだだけでは良く分からない面倒くさい歌詞のようなものが好きだ。最近のJ-Popの歌詞は、直喩的表現がとりわけ多いように思えるけれど(意外とアイドルポップスとかの方が含蓄のある歌詞を歌っていたりして、面白いのが最近の傾向ではないか)やっぱり僕は小説と同じように、色んな方向から色んな読み方ができる歌詞が楽しいと思う。

歌詞の中の文学性と言えば良いのかもしれないが、キリンジの歌詞にはそういう文学性のようなものが多分に含まれていて、聴いていて、そして考えていて面白い。

そして、楽曲に関しても完成度がものすごく高い。異様なコード展開で予想外の展開をしたり(エイリアンズは、キーがBメジャーで展開されているらしい)と歌詞だけでなく楽曲でも技量の高さを見せつけてくれるキリンジ。さすが、麒麟児(ギフテッド)、(良い意味で)謙遜する気もなさそう。

そんなわけで、キリンジ―しばらくの間、何度も聴くことになりそうだ。

エイリアンズ

エイリアンズ

 
エイリアンズ

エイリアンズ

  • KIRINJI
  • J-Pop
  • ¥250

 

Twitterのはなし: それがどう「良い」か書くべき?

Twitterに音楽を投稿したり、料理を上げるとき、どんな言葉と一緒にアップしようかいつも悩む。

そして僕は大抵そこに、"良い曲"とか"美味しかった"とか当たり障りのない言葉をくっつけてアップするんだけど、たまにもっと細かいことを書くほうが良いのかな、と思うときがある。これじゃあ、語彙力が低すぎて、何にも伝わらないかな、なんて思って。

でも、"ジューシーな肉汁が溢れ出るようなハンバーグで、チーズが口の中でとろけて美味だった"とか、"ギターのカッティングが小気味よく、圧倒的なグルーヴを成している名曲"とか書くと、なんだかうーん、ちょっと違うかなという気持ちになる。

結局、Twitterのタイムラインってすごく私的なつぶやきが集まっていて、プライベートな空間と思いきや、総体としてはパブリック(公的)な場所だと僕は思う。だから、その場所での発言にどれくらいのカオスが許されるか、というのは少し考えなきゃいけないことのような気がする。

専門家なら、専門のことをいくらでも語っていいけれど(例えば、行政学者のTwitterなら豊洲問題とか森友学園について存分に書いて良いと思う)果たしてそれを一般の人がツイートしまくっている場合、どれくらいフォロワーさんはそれを期待しているのか、と考えてしまう。

パブリックなメディアであるなら、やっぱりその求められているものとそうじゃないものとの過度な乖離は避けなければいけないのかな、とも思う。

もちろん、Twitterは個人の自由な発言の場所だから、いくらでも好きなことを書いて良いのかもしれない。別に"肉汁が溢れ出るハンバーグ"のことや"グルーヴが効きまくっている音楽"のことをいくらでも、何度でも、書いて良いのかもしれない。

でも僕は、そういう類のことは割とブログに書くようにしているし(Twitterはタイムラインだから意図せず見てしまうこともあるだろうけれど、ブログは見たいという意思が無ければ基本的にクリックしないはずだから)だからこそブログでは好きなことを長々とイライラさせるくらい書いても良いのかな、と思っているのだ。

黙って好きなことを書くのが、結局一番楽だし、楽しい。それは分かっている。

でも、Twitterに何かを書くってそういうイメージ、という固定観念がどうも上手く離れないのだ。