人は複数のペルソナの夢を見るか?

大江健三郎の「下降生活者」という短編を読んだ。

この小説は簡単に言えば、田舎(東京との対極の地として語られる場所)出身の主人公が、出自を隠し、その都合の悪い部分を偽りながら、高い地位(この小説では、大学教授として書かれている)を得るのだが、ある日突然路地で出逢った学生との関わり合いを通じて、はじめて心の落ち着きを感じる。というのも、主人公は結婚相手の妻に対しても、自分のことを偽り続けており、常に二重人格的に性格を作り上げていたからだ。

しかし、この学生に対しても主人公は、実際は大学教授であるにも関わらず、区役所の職員だと嘘をつく。

最終的には、諸々の事情があり(それは小説を読めば分かる)主人公は大学教授の職を辞し、路上で今までとは比べ物にならないような仕事に就くことになるのだ。彼は言う。

「僕は上昇の階梯にのって欺瞞の日常をおくってきた。いま欺瞞からのがれ、真実の自分に近づくためには、今まで上昇しつづけてきた高みから激しく下降せねばならないのだ。」 

上に書いた簡単な説明を読むだけでは(僕の文章力の無さに拠るところが大きいのだろう)正直何が魅力的な作品なのか分からないと思うが、この小説を読みながら、僕は複数のペルソナという存在の可能性、を考えた。

ペルソナとは日本語で「人格」のことを指すが、この小説の場合、主人公は表面的には上昇志向的(社会のなかで上流階級の人間でいたいという思い)な性向を持ちつつも、一方でその内部に(彼の内奥には)下降志向的な性向も元来存在していたのではないだろうか。

より簡単に言えば、この主人公には2つのペルソナがあり、一つは健全でインテリ的な「大学教授」としての、いわばエスタブリッシュメント的人格だ。そしてもう一つは、彼が生まれた地の地盤が持つような反エスタブリッシュメント的な、言うならば一方の人格と相反する人格だ。

このように、この小説を読んでいると、人に対して一つの軸を要求するアイデンティティ(自己同一性)といったものの存在が疑わしく感じられてくる。結局、みんな誰しもが複数の人格を持っていて、それは社会的・文化的な立場や状況によって容易にスイッチングされてしまうのではないかという疑問だ。

例えば、自分がAさんに見せている顔とBさんに見せている顔はおそらく同一ではない。少なからず人は、相手によって見せる顔を変えているし、それははその人が属するコミュニティによっても変化するだろう。職場での顔、家庭での顔などなど。

要するに、それらに一定の同一性を担保させるのにも限界があるのではないか。人は複数のペルソナを無意識的、あるいは、意識的にスイッチングさせることで、自分を成り立たせているような気がする。しかし、それは時としてこの小説の主人公のように、自分という存在を不安定にさせ、陥れ、そして壊してしまう。偽りを演じることで、欺瞞に対するやるせなさが募り、どうしようもならなくなってしまうのだ。

では、それはペルソナを単一化させることで解決するのか。僕はそうは思わない。結局のところ、ペルソナを単一化させ、どこでも同じ顔を見せていても、それはそれでコミュニティにおいて適合・不適合の歪みを生じさせ、そのコミュニティの内部の人たちとの関わり合いを困難にする。

しかし、ペルソナを複数にすることで、コミュニティによって顔を使い分けることができ、コミュニティでの適合・不適合の歪みを生じさせるリスクは軽減させられるようになるが、一方で主人公のように欺瞞という形で、自己との葛藤が増えるのだ。

「人は複数のペルソナの夢を見るか?」―こう聞かれても、これは事実、もう夢ではなくて、現実の話だ。ただし、ここで書いた「複数のペルソナ」が本質的な意味で理想の姿を獲得しているか、あるいは、獲得し得るのか、と聞かれるとやはり大いに疑問だし、まだそれは夢の段階に留まっているように思われる。

見るまえに跳べ (新潮文庫)

見るまえに跳べ (新潮文庫)

 

Dear

久しぶりに書いてみる。だいたい文章を書きたいと思うのは、夜中で、それも深夜。静かで無いと書く気力は起きない。

3年生になって、就活とか大学院とかいろいろこれからのことを考えなきゃいけなくなってきた。この先どんなふうになるんだろうと思いを巡らせたりするけれど、明日だってよく分からない中で、数年後どうなっているかを見通すことは、そう簡単なものじゃない。

自分がなりたい姿とか、こんなことをしていたいな、こんな人になりたいな、と思う気持ちはいつでもあるけれど、そうなりきれなかったり、想像はいくら盛り上がっても、現実を眼前に突きつけられると落ち込んでしまったり。

憧れる人はいつだって努力して(それは多くの人たちの目に触れないところで行われているのかもしれない)いるはずだし、誰でも真似すればそうなれるわけじゃないことくらい分かっているけれど。

TwitterとかFacebookとかいろいろな形で、憧れる人たちは近くなって、より現実味を帯びてきた。けれど、現実味を帯びるほど、逆にどんどんと遠くなっていくような気がする。近づいたら、逆に遠くなっていくなんて。何かを知ることは、一つの憧れを追うことであって、それと同時に、一つの悔しさを得ることでもある。

結局、こういうブログ記事を書くことだって、自分の頭の中の整理のためだったりして、書いているうちに頭がすっきりしてくるから、この記事みたいに意味のないことだって、自分にとっては少し意味のあることだったりする。読んでいる人にとって、どうかは分からないけれど。

憧れの人とか、尊敬する人って、本当のところはもう「実在」する人物ではなくて、「架空」の存在なのかもしれない。自分の頭の中で都合よく作り上げた存在。嫌なところ、苦労するところは削って、格好良いと思うところだけしか見ていないのかもしれない。そんなに都合の良い姿が、見たいのか。

いろんなことが頭をよぎる。

とりあえず、フレンズ聴こう。

渋谷系も良いけど、神泉系も良い。ロケ地は恵比寿だけど。

分かりやすい「ものさし」で測るということ

寝る前ってなんだかいろんなことが書けるような錯覚に陥る。

そりゃもう、早くベッドに入って寝てしまえば良いのに、何を好き好んでカタカタ打ってるんだ、とも思うけれども。

でも書きたいことはたいして無くても、文字を書くこと、打つことが好きだ。良い文書が出来上がる保障はどこにもないけれど、何か書いているうちに落ち着くというか。だから、レポートを書くのも案外好きだ。筆記テストは最悪。

 

東京タラレバ娘」のエンディングテーマ曲だったPerfumeの「TOKYO GIRL」を聴きながら、分かりやすい「ものさし」が年々減っていっているな、とふと思った。

昔は簡単だった優劣のつけ方が、どんどんと難しくなっていく。分かりやすいものさしが減り、そのかわりに上手く測れないポンコツなものさしばかりが増えていく。

例えば、幸せそうに偽っているけれど、本当は不幸せな人と、周りからどう見ても不幸せな人、どっちが良いのだろう。偽善的な幸せを演じている人の方が、どう見ても不幸せな人よりもさらに不幸せなのか。こういうのは、簡単なものさしではどうも上手に測れない。いや、本当は測ること自体がナンセンスなのかもしれないけれど。

東京で何か希望を追い求めて、夢を見て、その万華鏡からどうしてもリタイアできずにいる人(本当はもう無理だって気づいているけれど、リタイアした自分を想像したくないのかも)って結構多いような気がする。何でもある街だからこそ、色んな足りないこと、どうしようもないこと、達せられない自分が妙に気になりだしてきて、どうしようもなくなる。

東京でどれが幸せだとか、不幸せだとか、勝ちだとか、負けだとか、そういうことは最近とても分かりにくくなってきているように思える。そして、もしかしてそれは東京に限らず日本中どこでもそうなのかもしれない。

明確な答えが見つからないから、もう少し待てば、もう少しこうすれば、もっと良くなるかも、もっと幸せになれるかもって思ってしまう。そうしてタラレバしているうちに、いろんなことが過ぎ去っていくのかもしれない。けれども、それを否定もできない。

だって、分かりやすく理性的で、とても人間的な「明快さ」はその人自身を、最後にはつまらなくさせてしまう気がするから。自己啓発書に書いてあるように、無駄なことはやめましょう、無駄な思考、無駄な時間は取り除きましょう―その通りに従えば、理性的で明快な毎日が目の前に現れるのかもしれない。

でも、僕はそれを理想的だとはおよそ考えられないし、そういう計算高い正しさは、きっといろんなことをつまらなく、そして汚してしまうと思う。だから、タラレバしたって良い。分かりやすいものさしで自分のまわり、至るところにある物事を測らなくても良いんじゃないかな。

その無駄な過程が、きっと最後には良いところへとたどり着かせてくれるような気がするから。「TOKYO GIRL」を聴きながら、そんなことを思った。

TOKYO GIRL

TOKYO GIRL

  • Perfume
  • エレクトロニック
  • ¥250

深夜に突然現れる「何か書きたい欲」

何か書きたいけど、書くことがない。そんな気分。

何かを誰かに伝えたくて、自分自身が喜べるような小気味よい文章を書きたくて、BGMとして聴いている藤原さくらの音楽がとても良くて、何かさらさらと書けるような気がしたけれど、書けない。

だって、書くことが何もないから。いや、本当は多分あるんだ。

でも、それを詳細に語る能力も無いし、面白おかしく記述するテクニックもまたない。

ついこの間20歳になって、やっと20代が始まったにも関わらず、文章力は一つも上がっちゃいない。たくさん本を読んで、良い文章を噛み締めれば、もっと素敵な文が書けるようになるのかな。自分で読んでて、おおっ!ってなるような良い文章。maybe、無理。

僕が今まで読んできた作家で文章が上手いと思うのは、太宰治だ。上手いというより、リズミカル。流れるような文体。適切に配置された体言止め。津軽弁の影響だろうか、太宰の文章はロジカルというより、フィジカルで、身体性が高い。

この流れるような文体というのに憧れる。みんなが努力すれば誰でも太宰みたいな文を書けるのだとしたら、多分、世の中に星の数ほど溢れる作文やブログは、ものすごいクオリティになるんだろう。だが事実そんなことはないから、やっぱり文章には天性的なものが関係してくるらしい。

村上春樹は「午前3時に冷蔵庫を漁るような人間には、その程度の芸術しか生み出せない。そしてそれが、僕だ。」と言っていたけれど、そんな午前3時に同じように文章を打っている僕自身も、やはりその程度のものしか生み出せないような気がする。

じゃあ、早起きして朝6時に打てば、もっと素晴らしくて、比類ない、最高の文章を生み出せるかって。それも限りなく怪しい。限りなく黒に近いグレーゾーンだ。

とにかく、こんなことをしている場合じゃないんだ。本当は。

だらだらと書いてきた無益な文章に終止符を。おやすみなさい。

I wanna go out

I wanna go out

maybe maybe

maybe maybe